東京の日とは?江戸が東京へ改称された歴史と首都誕生の背景

社会・経済

7月17日は「東京の日」と呼ばれています。日本を代表する都市であり、現在では政治・経済・文化の中心となっている東京ですが、その名称が誕生したのは明治維新のさなかでした。

1868年、明治天皇が発した詔書によって、それまで「江戸」と呼ばれていた都市は「東京」と称されることになります。しかし、単純に都市名だけが変更されたわけではありません。

江戸から東京への改称には、徳川幕府の時代を終わらせ、天皇を中心とする新しい国家をつくるという明治政府の政治的な意図が込められていました。

この記事では、「東京の日」の由来を確認するとともに、なぜ江戸が東京と呼ばれるようになったのか、東京という名前にはどのような意味があったのか、そして東京が首都になるまでに何が起きたのかを詳しく解説します。

東京の日とは?7月17日に江戸が東京へ改称された歴史を解説

東京の日は江戸が東京と称された日に由来する

毎年7月17日は、一般に「東京の日」と呼ばれています。

その由来となったのが、慶応4年7月17日に出された江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔です。この詔書によって、江戸は今後「東京」と称されることになりました。

ただし、ここで注意したいのが日付です。

慶応4年当時の日本では、現在とは異なる旧暦が使われていました。そのため、慶応4年7月17日は、現在使われているグレゴリオ暦では1868年9月3日に当たります。

つまり、現在の7月17日に江戸の名称が変更されたわけではなく、旧暦の日付をそのまま記念日として扱っているのです。

また、「江戸から東京へ正式に改称された」と説明されることが多いものの、詔書に記された表現は「自今江戸ヲ称シテ東京トセン」、すなわち「今後、江戸を東京と称することにする」というものでした。

現代の自治体名変更のような行政手続きとは性格が異なり、新政府が江戸という都市を新しい国家の重要拠点として位置づけ直した宣言だったと考えるのが適切です。

江戸から東京へ改称された時代背景

江戸が東京と呼ばれるようになった1868年は、日本の歴史が大きく動いた年でした。

前年の1867年、江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行い、政権を朝廷へ返上します。その後、王政復古の大号令が発せられ、天皇を中心とする新政府が成立しました。

しかし、旧幕府側と新政府側の対立がすぐに収まったわけではありません。

1868年1月には鳥羽・伏見の戦いが始まり、戊辰戦争へと発展します。新政府軍は東へ進軍し、同年4月には西郷隆盛と勝海舟の交渉によって江戸城が無血開城されました。

さらに5月には、旧幕臣を中心とする彰義隊と新政府軍が衝突した上野戦争が起こります。戦闘は一日でほぼ決着しましたが、江戸の町には戦争と政権交代による大きな混乱が残りました。

江戸から東京への改称は、このような幕府崩壊戊辰戦争の最中に行われたのです。

江戸幕府が終焉へ向かう背景には、幕末に新しい日本のあり方を求めた人々の思想もありました。安政の大獄で処刑された吉田松陰については、【吉田松陰】親思う心にまさる親心の意味と背景|安政の大獄と永訣の歌で詳しく解説しています。

単なる地名変更ではなく、徳川幕府の本拠地だった江戸を、新政府の都市として再出発させる意味を持っていました。

なぜ江戸は「東京」と名付けられたのか

「東京」という名前は、文字どおり「東にある京」あるいは「東の都」という意味です。

「京」という漢字には、都や天皇のいる場所という意味があります。それまで日本の「京」といえば、長い間、京都を指していました。

しかし、新政府は東日本最大の都市である江戸を、京都と並ぶ政治上の重要拠点として位置づけようとしました。その考えが「東京」という名称に表れています。

詔書では江戸について、東国第一ノ大鎮」「四方輻輳ノ地と表現されました。

東国第一ノ大鎮」とは、東日本で最も重要な大都市という意味です。「四方輻輳ノ地」とは、人や物が四方から集まる交通・経済の中心地を表しています。

江戸は徳川幕府の本拠地であっただけでなく、すでに百万人規模ともいわれる人口を抱え、全国から物資と人が集まる巨大都市へ成長していました。

新政府にとって、この都市基盤を捨てる理由はありません。むしろ、江戸の人口、道路、水路、商業、武家屋敷、行政施設などを利用することで、新国家の統治を効率的に進められる利点がありました。

江戸を破壊して新しい都市をつくるのではなく、江戸が持つ力を引き継ぎながら、東京という新しい政治都市へ転換する道が選ばれたのです。

当初は「トウキョウ」と「トウケイ」が混在していた

現在、「東京」は当然のように「トウキョウ」と読みます。しかし、明治時代の初めには「トウキョウ」だけでなく、トウケイという読み方も使われていました。

「京」という漢字には、「キョウ」という読み方のほかに、「京師」のように「ケイ」と読む漢音があります。そのため、「東京」という言葉自体も、古くから「トウキョウ」と「トウケイ」の両方で読まれる可能性がありました。

江戸を東京と称した詔書には、読み仮名が付けられていません。また、「トウキョウと読まなければならない」と定めた法令もありませんでした。

その結果、明治初期の小説や公文書、外国人向けの資料などでは、「とうきょう」「とうけい」「TOKIO」「TOKEI」といった表記が混在しています。

一説には、旧幕府時代への思いが強い江戸の人々が、京都を連想させる「キョウ」という読み方を避け、「トウケイ」と呼んだともいわれています。

やがて学校教育や公的な表記が整備され、明治30年代ごろには「トウキョウという読み方が定着していきました。

東京という都市名だけでなくその読み方も明治という新時代の中で徐々に形づくられたのです。

東京への改称と遷都は同じではない

東京の日について語る際、特に混同されやすいのが「改称」と「遷都」の違いです。

慶応4年7月17日の詔書によって江戸は東京と称されましたが、この日に京都から東京への遷都が正式に完了したわけではありません

同じ日には、江戸府に代わって東京府が設置されました。しかし、明治天皇はまだ京都におり、政府機関のすべてが東京へ移転していたわけでもありません。

その後、慶応4年9月8日に元号明治へ改められます。

明治天皇は同年9月20日に京都を出発し、10月13日に東京へ到着しました。その際、江戸城は天皇の滞在する皇居とされ、名称も「東京城」へ変更されます。

明治天皇はいったん京都へ戻りましたが、翌1869年3月に再び東京へ入りました。さらに太政官をはじめとする政府機関も東京へ移り、東京は事実上の政治中心地となっていきます。

東京への移行については、「東京を首都とする」と一度に宣言した明確な遷都詔書が出されたわけではありません。

改称、天皇の東幸、江戸城の皇居化、政府機関の移転が段階的に進んだ結果、東京が事実上の首都になったというのが実態です。

新政府が江戸を必要とした理由

明治政府の内部では、当初から江戸への移転だけが検討されていたわけではありません。

新政府の中心人物だった大久保利通は、一時、大坂への遷都を提案していました。

大坂は商業の中心地であり、海上交通や外国との外交にも適していました。また、天皇や公家が京都に閉じこもる従来の政治から脱却し、天皇が各地を巡って国民に近い存在になるべきだという考えもありました。

大坂遷都案は採用されませんでしたが、天皇が京都の外へ出て政治を行うという発想は、その後の東京行幸にもつながっていきます。

最終的に江戸が重視された理由としては、巨大な人口と経済力、東日本支配の拠点としての立地、幕府が整備した行政施設や交通網などが挙げられます。

さらに、新政府には徳川幕府の影響が強かった関東地方を安定させる必要もありました。

旧幕府の中心地だった江戸を新政府自らが統治することは、政権交代を全国に示す象徴的な意味を持っていたのです。

東京府設置の裏にあった江戸の経済不安

江戸が東京に変わったと聞くと、華やかな文明開化の始まりを想像するかもしれません。しかし、当時の住民にとって、政権交代は必ずしも明るい出来事だけではありませんでした。

江戸には多数の武士や、武家を相手に商売をする職人・商人が暮らしていました。ところが幕府が崩壊し、諸藩の武士が江戸から地元へ戻ると、人口と消費が急激に減少します。

武家屋敷を相手にしていた商売は成り立たなくなり、仕事や収入を失う人も現れました。江戸の町は、政治的な混乱だけでなく、深刻な経済不安にも直面していたのです。

東京府設置に伴って出された文書でも、幕府の廃止後、生計を立てることに苦しんでいる人々がいる状況が指摘されました。

そのうえで、住民にはぜいたくを慎み、仕事に励み、産業を盛んにすることが求められています。

東京の誕生は、完成された首都の華々しい出発ではなく、戦争と失業、人口変動に揺れる都市の再建から始まったのです。

東京の日と都民の日は何が違うのか

東京の日」と混同されやすい記念日に、10月1日の「都民の日」があります。

東京の日は、1868年7月17日に江戸が東京と称された歴史に由来する日です。

一方、都民の日は、1898年10月1日東京市が一般の市と同じ自治制度を持つようになった出来事に由来します。

明治時代初期の東京市では、市長や市役所の権限が制限され、東京府知事が市長を兼ねる特殊な制度が採用されていました。その特例が廃止され、1898年10月1日に独立した東京市役所が開庁します。

この出来事を記念し、東京都は10月1日を都民の日と定めました。都立の動物園、庭園、博物館などが無料公開されることがあるのも、この都民の日です。

7月17日の東京の日は都市名誕生の記念日、10月1日の都民の日は東京の自治に関係する記念日と整理すると分かりやすいでしょう。

東京の日に振り返りたい江戸から受け継がれたもの

江戸から東京へ名前が変わっても、都市の文化や人々の生活が一日ですべて変わったわけではありません。

道路や水路、橋、寺社、商店街、町名、祭り、食文化、職人の技術など、江戸時代につくられた多くのものが東京へ引き継がれました。

日本橋、浅草、神田、上野、両国などを歩けば、現在でも江戸の歴史を感じられる場所が数多く残っています。

一方で、東京は関東大震災東京大空襲によって大きな被害を受け、そのたびに都市構造を変えながら復興してきました。

現在の東京は、江戸時代の文化、明治時代の近代化、震災と戦災からの復興、高度経済成長、国際都市化という複数の歴史が重なってできています。

東京の日は、単に地名が変わった日ではなく、江戸という巨大都市が近代国家の首都へ歩み始めた転換点として捉えることができます。

まとめ

7月17日東京の日は、慶応4年7月17日に「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔」が出され、江戸が東京と称されるようになったことに由来します。

ただし、この日付は旧暦であり、現在の暦では1868年9月3日に当たります。また、江戸から東京への改称と、京都から東京への遷都は同時に完了したわけではありません。

江戸の改称、東京府の設置、明治天皇の東幸、江戸城の皇居化、政府機関の移転が段階的に進み、東京は事実上の首都となりました。

江戸から東京への変化は、名前だけを取り替えた出来事ではなく、幕府の都市を近代日本の政治的中心地へ再編する大事業でした。

東京の日をきっかけに、普段何気なく使っている「東京」という名前の背景や、江戸から続く都市の歴史に目を向けてみるのもよいでしょう。

政治や行政、制度の変化が社会や暮らしに与える影響については、社会・経済ニュースを読み解く|企業・政治・国際情勢から暮らしへの影響まででも幅広く紹介しています。

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