竹富島の歴史を徹底解説|オヤケアカハチの乱・西塘・戦争マラリア
沖縄県の八重山諸島にある竹富島は、赤瓦の家々、白砂の道、サンゴ石を積み上げた石垣など、沖縄らしい町並みが残る島として知られています。石垣島から船で訪れやすく、水牛車による集落観光や美しい海を目的に訪れる人も少なくありません。
しかし、竹富島の魅力は景観や海だけではありません。島の歴史をたどると、琉球王国と八重山の勢力が衝突したオヤケアカハチの乱、竹富島出身の偉人・西塘、八重山統治の拠点となった蔵元、太平洋戦争中の戦争マラリアなど、琉球・沖縄の歩みを考えるうえで重要な出来事が見えてきます。
竹富島そのものが大規模な合戦の主戦場になったわけではありません。それでも、八重山の政治体制が大きく変化した時代には、竹富島もその影響を強く受けました。さらに16世紀には、竹富島が一時的に八重山統治の中心となった歴史もあります。
この記事では、竹富島の歴史について、オヤケアカハチの乱、西塘の生涯、蔵元の設置、島に残る信仰や伝承、太平洋戦争と戦争マラリアを中心に詳しく解説します。
竹富島はどのような歴史を持つ島なのか

竹富島は、石垣島の南西約6キロメートルに位置する小さな島です。サンゴ礁が隆起して形成された平坦な島で、大きな山や川がありません。島の中央部には集落があり、現在も赤瓦屋根の家、サンゴ石の石垣、白砂を敷いた道などが大切に守られています。
現在の竹富島からは、穏やかで静かな島という印象を受けます。しかし、八重山諸島は古くから周辺の島々との交流があり、海上交通を通じて人、物資、信仰、技術が行き交う地域でした。
台湾がかなり近い距離にあります。

15世紀から16世紀にかけて、沖縄本島では琉球王国が支配体制を強化していました。一方、首里から遠く離れた八重山には、それぞれの地域を治める有力者が存在していました。こうした八重山の地域勢力と首里王府との関係が大きく変わるきっかけとなったのが、1500年に起きたオヤケアカハチの乱です。
オヤケアカハチの乱と竹富島の関係
石垣島を中心に起きた八重山の大きな戦い
オヤケアカハチの乱とは、1500年に石垣島を中心として起きた、八重山の有力者と琉球王府との武力衝突です。
オヤケアカハチは、石垣島南部の大浜を拠点として勢力を持っていた人物とされています。当時の八重山には複数の有力者が存在しており、首里王府による支配が現在の行政制度のように安定していたわけではありませんでした。
琉球王府は尚真王の時代に中央集権化を進め、各地の有力者を王府の統治体制へ組み込もうとしていました。その過程で王府とオヤケアカハチ側との対立が深まり、王府は大里按司を総大将とする遠征軍を八重山へ派遣します。
戦いの中心となったのは石垣島であり、竹富島が直接の主戦場になったと断定できる記録は確認されていません。しかし、石垣島のすぐ近くに位置する竹富島も、この軍事的・政治的な変化と無関係ではありませんでした。
八重山が琉球王国の統治下へ組み込まれる
オヤケアカハチ側が敗れたことで、八重山諸島は琉球王国の統治体制へ本格的に組み込まれていきます。
この出来事は、単に一人の有力者が討たれたというだけではありません。八重山の各地域が独自の有力者によって治められていた時代から、首里王府が役人を通して統治する時代へ移っていく、大きな転換点でした。
そして、オヤケアカハチの乱と竹富島を結び付ける重要人物が、竹富島出身の西塘です。
竹富島出身の偉人・西塘とは
王府軍の大将に才能を見いだされたという伝承
西塘は、15世紀末ごろに竹富島で生まれたとされる人物です。竹富島の歴史を語るうえで、最も重要な人物の一人といってよいでしょう。
伝承によると、西塘は1500年のオヤケアカハチの乱の際、八重山へ遠征してきた琉球王府軍の総大将に聡明さを見いだされ、首里へ渡ったとされています。
西塘が王府側に見いだされた詳しい経緯については、後世の伝承として語られている部分もあります。しかし、竹富島出身の西塘が首里王府に仕え、高い地位と重要な役割を与えられたことは、竹富町の歴史にも記されています。
首里王府で司法官や技術者として活躍
首里へ渡った西塘は、尚真王の時代に王府へ仕えました。竹富町の記録では、西塘は首里王府で約25年間、司法官を務めたとされています。
西塘は行政や司法だけでなく、石工・建築技術にも優れていた人物として知られています。1519年には、首里城の石門や石垣の築造に関わったと記録されています。
なかでも西塘の代表的な仕事として知られるのが、首里城近くにある園比屋武御嶽石門です。園比屋武御嶽は、琉球国王が外出する際に安全を祈願した神聖な場所です。その石門の建築に携わった人物として、西塘の名が伝えられています。
遠く離れた竹富島から首里へ渡った人物が、王国の政治や宗教に関わる重要施設の建築を任されたことからも、西塘が王府から高く評価されていたことが分かります。
竹富島が八重山統治の中心だった時代
西塘が竹富島に蔵元を設置
1524年、西塘は「竹富大首里大屋子」の頭職に任命され、故郷である竹富島へ戻りました。これは八重山を統治する責任者にあたる役職で、西塘は八重山出身者として初めて任命されたとされています。
竹富島へ戻った西塘は、島内に蔵元を設置しました。蔵元とは、琉球王府が地方を統治するために置いた行政機関です。役人が置かれ、年貢や貢納物の管理、住民の把握、王府からの命令の伝達などを担いました。
西塘が蔵元を設けてから約20年間、竹富島は八重山統治の拠点として機能しました。現在では石垣島が八重山の行政・経済の中心ですが、16世紀前半には、小さな竹富島が八重山政治の中心地だった時期があるのです。
蔵元が石垣島へ移された理由
竹富島の蔵元は、1543年に石垣島へ移転しました。
その理由として挙げられているのが、竹富島の面積が小さいことと、行政や海上交通の拠点に適した良港がなかったことです。八重山全体を統治し、各島との間で人員や物資を動かすには、より広く港湾条件にも恵まれた石垣島の方が適していました。
蔵元が移転した後、八重山の政治的中心は次第に石垣島へ移っていきました。それでも、竹富島に蔵元が置かれた事実は、島が琉球王国による八重山統治の出発点の一つだったことを示しています。
西塘御嶽と蔵元跡に残る歴史
西塘は1550年に亡くなったとされ、その墓所は竹富島の西塘御嶽にあると伝えられています。
御嶽は、沖縄や八重山で神聖な祈りの場とされる場所です。西塘は単なる歴史上の役人ではなく、竹富島の発展に貢献した人物として島民から深く敬われ、現在も西塘御嶽に祀られています。
西塘御嶽と蔵元跡は、いずれも沖縄県指定の史跡です。竹富島を訪れる際には、赤瓦の町並みや海だけでなく、こうした史跡を見ることで、島が八重山統治の中心だった時代を身近に感じられます。
ただし、御嶽は観光施設ではなく、現在も島の人々が大切にしている信仰の場所です。むやみに内部へ立ち入らず、静かに敬意を払うことが必要です。
竹富島に伝わる六山の神々と島の信仰
竹富島には、集落の始まりに関わる「ムーヤマ」と呼ばれる六山の伝承があります。六つの地域や一族の祖とされる存在が島の集落を形成し、それぞれの御嶽を中心に暮らしてきたという伝承です。
こうした伝承は、現代的な意味での歴史記録とは性質が異なります。しかし、島の人々が自分たちの祖先や集落の成り立ちをどのように理解し、受け継いできたのかを知るための重要な手掛かりです。
竹富島には、オンまたは御嶽と呼ばれる神聖な場所が数多くあります。祭祀では、健康、豊作、安全な航海、集落の繁栄などが祈られてきました。
また、海の向こうにある理想郷・ニライカナイから神々が訪れるという信仰もあります。島にあるニーラン神石は、豊穣をもたらす神々が船で訪れ、上陸するとされる場所に関係しています。
竹富島では、歴史、祭祀、芸能、信仰が別々に存在しているのではなく、島の暮らしの中で一体となって受け継がれてきました。
種子取祭に受け継がれる竹富島の文化
竹富島を代表する祭りが、種子取祭です。沖縄では、稲や粟などの種をまく時期に行う行事を「種子取り」と呼びます。
竹富島の種子取祭では、豊作を祈願し、神々に多くの芸能が奉納されます。舞踊、太鼓、棒術、狂言、組踊など多彩な芸能が披露され、島の人々によって世代を超えて受け継がれてきました。
神々に芸能を奉納し、人々が祭りの喜びを分かち合う竹富島の種子取祭には、神と人が共に楽しむという考え方が表れています。こうした祭りの精神については、神人共楽の意味とは?神様と人が祭りで共に楽しむ言葉を解説でも詳しく紹介しています。
竹富島の種子取祭は、芸能的・民俗的に高い価値を持つものとして、1977年に国の重要無形民俗文化財に指定されています。
この祭りは観光客のために作られた催しではありません。島の信仰と共同体を維持するための重要な祭祀です。西塘にまつわる歌や芸能も伝えられており、竹富島の歴史は文書や史跡だけでなく、歌と踊りによっても残されています。
太平洋戦争と竹富島
大規模な地上戦がなくても戦争被害はあった
太平洋戦争末期、八重山諸島では沖縄本島のような大規模な地上戦は行われませんでした。しかし、戦闘が行われなかったからといって、竹富島が戦争の被害を受けなかったわけではありません。
竹富島には日本軍の部隊が配備され、米軍の上陸に備えた陣地構築が進められました。住民も壕掘り、海岸警備、食料の確保、家畜や物資の供出などに関わらざるを得ませんでした。
1945年3月以降は八重山周辺への空襲や攻撃が激しくなり、島民の生活にも強い緊張と混乱が広がりました。
竹富島住民を襲った戦争マラリア
八重山の戦争被害を語るうえで欠かせないのが、戦争マラリアです。
戦争末期、日本軍の指示や命令により、多くの八重山住民がマラリアの発生する地域へ避難させられました。避難先には西表島などのマラリア有病地が含まれており、慣れない環境、食料不足、医薬品不足が重なったことで感染が広がりました。
竹富島からも一部の住民が西表島や由布島などへ避難しました。その結果、1945年には竹富島の住民1,430人のうち77人がマラリアにかかり、7人が亡くなったとする記録があります。
八重山全体では、当時の人口約3万1,700人の半数以上がマラリアに罹患し、3,600人を超える人々が亡くなりました。
竹富島の被害は、波照間島や小浜島などと比較すると人数・割合ともに少なかったとされています。しかし、病気によって命を奪われた事実に変わりはありません。
竹富島の戦争史は、戦場での銃撃や砲撃だけが戦争被害ではないことを伝えています。軍の駐屯、住民動員、物資の供出、避難命令、感染症なども、島の暮らしと人命を脅かしました。
現在の美しい町並みも竹富島の歴史の一部
竹富島の赤瓦屋根、サンゴ石の石垣、白砂の道は、単なる観光用の景観ではありません。台風や強い日差しに対応しながら暮らしてきた島民の生活の知恵と、地域文化を守ろうとする長年の努力によって維持されています。
竹富島の主要な集落は、1987年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。島では、伝統的な町並みや自然を守るため、土地や景観を大切にする考え方が共有されています。
観光客にとっては美しい撮影場所に見える路地や石垣も、島民にとっては日常生活の場です。住宅の石垣より内側へ入らない、御嶽へ無断で立ち入らない、植物やサンゴなどを持ち帰らないといった配慮が求められます。
竹富島の景観を楽しむことは、島の歴史や文化を知ることにもつながります。現在の町並みは、過去から切り離された観光資源ではなく、島民が守り続けている生きた文化遺産なのです。
まとめ
竹富島は、赤瓦の集落と美しい海で知られる一方、琉球王国と八重山の関係を考えるうえで重要な歴史を持つ島です。
1500年のオヤケアカハチの乱によって、八重山は琉球王国の統治体制へ本格的に組み込まれていきました。戦いの中心は石垣島でしたが、この出来事をきっかけとして竹富島出身の西塘が首里王府へ仕え、後に八重山統治の責任者となります。
1524年には竹富島に蔵元が設置され、約20年間、竹富島が八重山統治の中心となりました。西塘が残した功績は西塘御嶽や蔵元跡に伝えられ、現在も島の人々から大切にされています。
また、竹富島には六山の神々に関する伝承、御嶽を中心とする信仰、種子取祭など、島の成り立ちや共同体の歴史を伝える文化が残っています。
太平洋戦争では大規模な地上戦こそなかったものの、日本軍の駐屯、住民の動員、空襲、避難、戦争マラリアによって被害を受けました。現在の穏やかな景色の背後には、島民が困難を乗り越え、文化と暮らしを守ってきた歴史があります。
竹富島は、海の美しさだけでなく、琉球王国の統治、島の信仰、伝統芸能、戦争の記憶が重なり合う歴史の島です。島を訪れる際には、西塘御嶽や蔵元跡、御嶽、伝統的な集落にも目を向けることで、竹富島をより深く理解できるでしょう。

